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【本】森田真円 / ひらがな真宗 (1)
難しい仏教用語を使ずに浄土真宗の教えが解説されており、非常に分かりやすい本です。備忘録と紹介を兼ねて、何回かに分けて打ち込ませていただきます。
ちなみに、巻末の「著者紹介」によると、森田さんは現在、
・本願寺派司教
・本願寺教学伝道研究所所長
・龍谷大学講師
・中央仏教学院講師
・奈良県葛城市教善寺住職
で、この本は本願寺出版社から出ています。非常に良い本だと思いますので、以下を読んで少しでも「なるほど」と思われた方には是非お薦めです!
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ちなみに、巻末の「著者紹介」によると、森田さんは現在、
・本願寺派司教
・本願寺教学伝道研究所所長
・龍谷大学講師
・中央仏教学院講師
・奈良県葛城市教善寺住職
で、この本は本願寺出版社から出ています。非常に良い本だと思いますので、以下を読んで少しでも「なるほど」と思われた方には是非お薦めです!
「キレる * 五濁悪時(ごじょくあくじ)」より
子どもの持っている不安は、大人の抱いている不安でもあります。生活の規範を躾ることができないのは親の無責任ですが、子どもの心の不安に向き合おうとしないことはもっと無責任であります。子どもの命は親のものではありません。仏さまから「預かっている命」だからこそ責任があるのです。その命は、仏さまになる尊い命なのです。親がこの尊い命を拝むようになれば、子どもの心の辛さをわかるようになれるのではないでしょうか。
「昔はよかった!? * 老苦」より
いつまでも「今が一番」だと味わえるような人生こそ、理想とする人生と言えます。飛び上がるような喜びはなくても、ただ苦しい辛いだけで終わらない、「生きていることは本当に尊い」と味わえるような喜びを伝えたいものです。
「老」には「上品に枯れた成熟した味」という意味もあるようです。大人が単に若さをうらやむだけでなく、成熟した味を求めていくのなら、若者が大人になることを拒んで「昔はよかった」などと言わないかもしれません。
「不安のままで * 病苦」より
病気に負けてはダメだ、などとたやすく口にします。けれども、少しでもよい兆候が見えてこそ、前向きの気持ちも保てるでしょうが、身体の痛みや辛さが消えていかない限り、気持ちが沈み、気力が衰えてくるのは当然のことです。繰り返し言いますが、それは当然のことなのです。
(中略)「こんなことではいけない」と思いながらも、やはり気持ちが萎えてくるとおっしゃるのならば、「もっと気持ちを強くもたねば……」と思いすぎないようにされることです。あまりそう思いすぎると、強くなれない自分が情けなくなり、かえってあきらめてしまうことにもなり、より一層気持ちが疲れてしまいます。自分で自分の気持ちを叱咤するのは、健康なときでも大変なのですから……。
(中略)あなたの生死の不安や心配は、そのまま引き受けようとされるのが阿弥陀さまであります。
「損な人生? * 生死いづべき道」より
生命の問題を自分の損得に置き換えて判定するのは、生命を私だけのものと考えている証拠ではないでしょうか?
自分の生命は、言うまでもなく、あらゆる生命によって成り立っているのです。毎日の食生活を振り返れば一目瞭然です。だからこそ、生命を「いただきます」と合掌するのでしょう。私の生命だけではありません。どんな生命でも、それ一つが独立して存在する生命というものはあり得ません。それゆえ、私の生命は無量の生命によって成り立っていると言われるのです。にもかかわらず、私だけの生命だと思い上がっているから、「損だ」「得だ」などということになるのです。
生命に損得はありません。あるとすれば「尊く生きたか」「無駄に生きたか」ではないでしょうか? その規準から見れば、自分に利益になることのみを選んで行い、楽をして生きることを考えて過ごし、ずいぶん得をした人生であったとしても、自分の人生を無駄に生きたということも充分あり得ることです。
反対にどのような辛い人生であっても、「尊く生きた」「真実に生きた」ということもあり得ます。
(中略)私だけの生命ではなかったという新しい生命世界に導かれることがお念仏の世界です。
「知ってるつもり * 迷い」より
迷いとは迷っていることさえ知らないことでもあります。行き先もわからず、暗闇の中で、いつ何時危険な崖下に落ちるかもしれないと自覚しているのならば、必死で灯火を探し道を求めるに違いないのですが、明日も今日と同じように生きていけると思っているからこそ、迷いなのであります。道を知っている方から見れば、危なっかしくて見ておられません。おそらく仏さまが私たちをご覧になれば、建築中の高層ビルの足場の上を幼児がハイハイしているのをみておられるようなものでしょう。
仏の教えは私たちに迷いの意味を教え、悟りへの道を指し示しています。お釈迦さまは、山に登るのに多くの道があるように、いろいろな人びとに応じて悟りへの道を示されます。けれども、道がたくさんあると思っているのは、山の麓で上を眺めている傍観者であって、私が歩もうとするならば、道は一つしかありません。
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