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【本】森田真円 / ひらがな真宗 (2)
(1)の続きです。
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「一本の道 * 時機相応」より
仏教は自らの命の問題を解決するものであります。つまり、「私は何のために生まれ、何のために死んでいくのか?」「人はなぜ出会い、なぜ別れていかねばならないのか?」等など、人間の経験や判断からは直ちに答えの出ない問題に、根本的な解決を与えようとするのが仏教の持っている本質であります。
ですから、自己を抜きにした傍観者や評論家には道は開けず、教えも響いてこないのです。
「私のためだったのか * 法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)」より
『仏説無量寿経』というお経の前半には、この法蔵菩薩が人格的に表現されています。それは、ある国王が王位を捨てて法蔵と名のる比丘(びく)となり、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏さまの所にやってきて、五劫の間思惟してあらゆる人びとを救いたいという願いを立てられ、その願いを完成するために兆載永劫(ちょうさいようごう)の間修行をされて阿弥陀仏という仏さまになられ、お浄土を完成されたというお示しであります。
(中略)『教行信証』には、兆載永劫の修行について述べられる直前に、私たちのありさまが示されてあります。すなわち、私たちは遥かなる昔から、ただ今この時に至るまで、煩悩にけがされて清らかな心を持つこともなく、嘘いつわりや媚びへつらう心でいっぱいで、真実の心を持つこともなく、迷いの世界をさまよってきたのであると述べられ、それと対比するように、法蔵菩薩は清らかな心や真実の心をほんの一瞬も失うことなく、兆載永劫の修行をされたと述べられるのです。
つまり、私の罪悪や迷ってきた長い時間と、法蔵菩薩の清浄で真実な兆載永劫の修行期間とが対比して述べられているのです。
ということは、法蔵菩薩が気の遠くなるような長い間の修行をされたのは、ほかでもないこの私のせいであったということになります。五劫についても同様で、それが『歎異抄』の、
「五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」
というお言葉なのです。
法蔵菩薩の思惟や修行が私のためであったと知らされなければ、お経は単なるお話になってしまうでしょう。
「限りないとは? * 阿弥陀仏」より
阿弥陀さまの「阿弥陀」とは、「限りがない、はかることができない」という意味で、すなわち「無限」「無量」であります。
お釈迦さまのことは理解できるけど、阿弥陀さまのことはわからないという声をよく聞きます。人間の知識や判断ではわからないという意味では、「阿弥陀」(無限)はよくわからなくて当たり前であります。
しかし、よくわからないという問いの中には、自分の知識や判断でうまく受けとめられないという意味合いが含まれています。お釈迦様は歴史上の人物として理解できるが、阿弥陀さまはこの世に現れた存在ではないから理解できないというのでしょう。
そこには、自分の知識や判断にうまく収まるものだけが本当で、それ以外は本当ではないというものの見方があります。
けれども、(中略)人間が把握できなくても無限はあるのです。また、人間の尺度がどうであろうとも無限は人間にかかわっているのです。現代の人間は、自分の尺度だけを頼りにして、無限というものの「すごさ」に鈍感になってきているように思えてなりません。
本来人間は、無限というものの「すごさ」にうたれて、無限に出会うのであります。限りない大河の流れや夜空の限りない星雲に感動するように。
阿弥陀さまの無限は、単なる自然の無限とは異なり、人間という迷いの存在に「限りない願い」をかけ、救いを与えようとするものです。その「すごさ」に出会った時、それは「尊さ」となり、自分の尺度の至らなさが知らされるのです。
どうも私たちは、目に見えない世界はすべて嘘だという考えに毒されているのではないでしょうか?
「二つのタイプ * 有見無見(うけんむけん)」より
たとえ、私たちが信じられないと思っていて、目に見えない世界からのはたらきかけは確かにあります。けれども、それは決して恐れの世界ではなく、私を抱き、私を育む、和らぎの世界であります。お念仏の教えに出遇えなければ、いつまでも「たたる」「さわる」という恐れの世界から逃れることができないでしょう。
「痛かったやろ! * 大慈大悲」より
人を慈しむとは、深い思いやりであり、そこには、自分の都合を忘れて、どこまでも相手に掛かりはてるという意味が含まれているでしょう。
自分の思いが優先している願いは、願い通りにならなければ、相手を責めるだけに終わって、いつかは見捨ててしまうかもしれませんが、真の願いは、あきらめるということがありません。
阿弥陀さまの願い(四十八の願い)には、私たち一人ひとりの苦しみをご自身の痛みと感じて悲しみ、私たちに掛かりはてておられる姿がさまざまに表されています。
その中、第十八番目の本願には、
「どうしても、人びとに本当の幸せを与えたい。それこそが私の幸せである」
という阿弥陀さまの願いの根本が示されてあります。
しかも「こうあるべきだ」と高みから見おろすのではありません。同じ場に立って、あきらめ見捨てることなく、「限りのない願い」をかけ続けられるのでります。
独りで生まれ独りで死んでいく私に、生きている間はもちろん、生まれる前からも死んでからも、私に届くまで「本当の幸せ」を与えようとされるのが、阿弥陀さまの願いであります。
人は真の願いに出遇ってこそ、自分を見つめ、人に対して優しくありたいと願うのであります。
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